昭和五十七年八月十五日 朝の御理解
御理解第五十九節 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで出世も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」
御神前で数字で「一三六八」という事を頂いたんですけど。いつもの事ながら驚きですけど。昨日の御用日誌を開かせてもらいましたら、昨日のお届け数が一三六八名であった。昨日のお届け数をお知らせ下さったとは思われない。やっぱり一三六八という事であります。ま、一三と言うば、ここでは神願成就というふうに頂きます。六と言やあ、お徳と頂く。八と言えば、もう限りなく広がっていくという時に頂く。「一三六八」ははあ、これが神様の願いだなあというふうに、ま、改めて思ったんですけども。どうでも一つ、お徳を受けて広がりに広がるおかげを頂かなきゃ。お徳を頂く為には、ならどういう信心をさせて頂いたがよいか。お徳を頂くという事は、おかげを切り離しては考えられません。やっぱりおかげも頂き頂き。次に御心眼に頂きましたのは「燕の子が大きな口を開けて親の餌を持って来るのを、ま、とるような顔を口を開けてしとります、ね。巣の中で」あゝいう情景を頂いたんですけれども。まあ皆さんが燕の子であるとするなら、大きな口。まあだ子供で何も分からない。もう餌さえもらえばいいのである。中にはなかなか利口なのがおってね。も、あれはちゃんと順番が決まっとるらしいですね。それに次のつを、こう押しのけてから次の番に、こうやって口を開ける。そげななかなか利口な事もするですね。あの燕と、ね。まあ私はそういう、頂いてこれはいよいよもって親の私が一生懸命、餌運びをしなければならないなというふうに改めて思うんです。私がいよいよおかげを頂かなければ。いよいよ私が言うならば、子供達に不自由をさせんだけの餌を運んであげなければならん、ね。そこから私は、思うんですけれども、合楽で頂くならば、ね。おかげも頂くけれども合わせて、お徳を頂かなければという、言わば一心発起がいるように思います。言うならば本当に信心を頂くという気持ちにならなければならんという事であります。信心を頂く為には、どうしても教えを頂き、そして教えを、いわゆる実験実証していかなければなりません、ね。そのなら信心を頂くという事は、どういう事かというと、段々育ってわからして頂く事は、ね。十三、一三である。神願成就がいよいよ祈れる為に信心を頂くという事になるわけです、ね。神願成就の為に信心を頂きたい。また育てたいというそこのところの。ま、これは私としても皆さんとしてもです。それには私がいよいよ、お徳を受けていかなければならんが、ね。皆さんも、またそのお徳に、ま、神習うていくという行き方、信心の内容が、ね。そういうふうに変わって来なければならない。お徳を受けて、そして広がりに広がるおかげの世界も、また頂けるわけですから、そこで思うんです、ね。そういう神様の願いが成就する為の、ま、御用にでも使うて頂きたい、と。
今度十五年の記念祭に記念出版されます御本が、毎日研修をさせて頂いとります。先生方がその日その日の御理解をまとめて、その中から、こ、抜粋して、でそれを適当な一冊の本にする。そしてその本の題名というか、を先立って先生方と相談してから、最近合楽で言われる一切神愛論という一切神愛論という題名にしたらどうだろうかと言うて、先日若先生がここでお届けしますから、はあこれは、もう最高だなと。合楽で説かれるお話しは、も、一切神様愛が説かれてあるのです。中途半端な事はない、もう一切。それを言うならば、こ、抜粋したそれに一切神愛論、してみると今度はそれには、またとても一冊二冊では、も、一切神愛論というのは、ま、膨大なものにいわばなるでしょうけれども、ね。だからあの私は、昨日研修の時でしたけども、ま、天の巻地の巻人の巻と天地人といったようなふうに合楽で言われますから、天地人一如の世界の天地人を、ま、今度出るやつには、天の巻にしたらどうぢゃろうかというふうに、ね。結局、合楽で頂いておる御理解は、も、一切神愛論なんです。だから一切神愛という事がわかる為の修行が頂けたら、ね。もう、焦点はここに置く以外はないと。ま、それはどういうふうに実現するかわからんけれども、天の巻地の巻というよりも天の性地の性というふうにした方が、いいかも知れん。ウン、それはその方がいいなと、ね。ですからそのどこが天の性、どこが地の性という事でもないのですけれども、ね。合楽で頂いておる御理解が、日々血肉になっていっておれば、ね。おのずと信心は育っていくという事であります、ね。親が一生懸命に餌を運んで来て食べさせておる。それは一切神愛論という餌を与えておるわけだけれども。だから頂く方の側がです。これを、ね。日々実験実証していく以外にはないのです、ね。私共が思うてみるとに、本当に御礼を申し上げねばならないところに、不足を感じたり不平を思うたりしておる事がないようであるようですね。
例えば先だって、四、五日前だったでしょうか。久富繁雄さんの御祈念をさしてもらいよったら見事な桶が、おおきな桶があるんです。立派な桶なんです。ところがそれに、丁度あの田植えする時のような泥をそれにいっぱい、こ、入れて入れておるところを頂いた。ところがその輪が、桶の時には立派なようであったけれども、泥を入れたら、こ、少し目を張ってきた。目が張ってきたら隙間からその泥、やわい泥ですから、こうやって出よるところを頂いた。ま、ここでは信心の手本のようにいつも言われる久富さんの事ですから、ね。確かに見た目には、それこそ立派な桶なのだけれども、ならそれに泥を入れてみると、ま、久富さんの信心は、こ、泥の信心と、こ、言われてますから、しかもその田植えなら田植えが出来るように、ま、やわい泥が、こ、入れると目がこうやって、どういう事かと言うと、結局もう、ひとしめ輪が緩いという事になるのぢゃないでしょうか。しっかり信心の帯をせよと、こう言われるが、しっかり帯をしとるようであってもです。いよいよ何かという時に、不平が出たり不足が出たりするとするならばです、ね。これは緩んでおる証拠です。一切神愛、いやそれは神愛、神様の働き以外にないぞとこう頂き止めれる心と言うものが、ね。見かけには、立派にしとる。だから逆さまにしてから、一遍こうやって、こう輪をしめ上げていかな、もう、ひとしめしなきゃならん。そんなお知らせを、まあ頂いたんですけれども。お互いの信心のところも、ね。一切神愛論というところがおかげぞと。おかげで信心が出来るぢゃないかと。例えば言えれる信心を、もうひとしめ、しめ上げていかなきゃならん。有り難い事もありゃ、有り難くない事もあるという間は、だから本当に信心が育っておるという事にはならないのです。これはもう、ま、合楽で、言うならば合楽で一級の信心をしておる人達がですね。あのもう一遍改めなきゃ出けん。何もわからんなりただ、おかげおかげ。燕が大きな口を開けて餌を求めておるような程度の人も、たくさんありましょうけれども、ね。その育っていっとる具合と、もう十年経ち二十年経ち、なら合楽で三十年も信心を頂いとるという人達が、いうならば、ね。理屈の上ではわかっておるけれども、もしそこに不平があるとするならば、不足があるとするならばまあだ一切神愛論。
私はその事を頂いてからこっち、久富さんのところの御祈念をする時に今までは、息子達夫婦が信心の継承が出来るように、孫達もみんな信心の継承が出来るように、ま、と言う願いをしとりましたけども、これはお願いよりも御礼を申し上げなならんと思うて、息子さん、国雄と言いますが、嫁御が信心がありません。けども国雄さん、どん夫婦が健康で一生懸命、も、それこそ、も、本当に他所の人達でも真似の出けん位な働きを表しておるという事ですから。これはこの事ば、まず御礼を申し上げないけないなあと言うて、これは久富繁雄さんの事ですよ。の、願いの時に願いからその事を御礼を申し上げる事に比頂しております、ね。もう家の嫁御が信心がないけんでと、ま、不平ぢゃないけどそういう事を思うた時には、私はまあだ御礼が足りんのだ。はあここのところを締め上げていかなきゃならないのだ。信心がないからこそ、ま、自分達の信心もシャンとするんだというように、ね。そこにそれも神愛だとして、それを神愛として頂ける時にこの桶の輪が、それこそ水ももらさんように締め上げられていく時ぢゃないでしょうか。そこから私は、信心が本当に育つと思うんです。
今日は大変な、ま、言うなら合楽の信心を頂くならどこを頂くかと、ね。それこそ一切神愛。も、とにかく不平はない、不足はない。その言いはせんでも心の中に思うておる事が、おかげの邪魔になっておるという事です。本当にね。これはもう、数年前の話しですけれども。日田の綾部さんのお導きで熱心に当時、参って来ておった人のお父さんが、もう十数年間、言語障害です。全然ものが出なくなったんです。その事を娘さんに、夫婦で一生懸命参ってお願いさせてもらいよりました。私はその時の話しを今日、ひょと思い出さして頂いたんですけれども。そのそこのお婆ちゃんという人が、丁度どっかに電話をかけよんなさった。そしたらその、ものの言わん筈のお爺ちゃんが、こらこらち、おらばっしゃったち。びっくりして持っておる受話器を取り落としたち、びっくりする時には、持っておる物でもやっぱり取り落すくらいにびっくりしますね。それからおしゃべりが出来る事なったんです、ね。それで、もうそれこそ腰のぬかさんばっかりにびっくりして、あの、ところがそのお爺さんが、その十五年間も物言わんやったものだから、その娘、息子、孫達まで全部一部屋に集めてですね。もう、お前はいつ、俺にこう言うた。あゝ言うたと、もう不平不足の、もうようもそげな覚えとられるち、言うごとみんなに、その言わっしゃったそうですたい。言い終わったのとあ~あ~ち言うて、物が出らん事なったのが一緒ぢゃった。だからね、不平不足というものは、そんなに言うならば、あのう、おかげの邪魔をするもんですよ。私共は、それが漠然としてわからんけれどもです、ですからそこに、一切神愛論という事がです。本当にわかってね。はあ、困った事っちゃあると言うても、いやあおかげぞと、例えば、久富さんがこう言う、ね。いやあれ達が、一生懸命やってくれるけん俺が、日々こうしてお参りも出来るし、御用も出来るとぞと。いやあそげな事で不平どん不足どん思うちゃならんぞと。ま、例えば夫婦の者が、話し合えるような信心にもう、ひとしめ締上げなきゃならんとこがいるのじゃないだろうかと。私共の世界から不平不足をなくしなきゃいけません。不平不足というのは、そんなにおかげの邪魔になるお徳を受ける邪魔になるという事です。お徳を受けていくという事は、不平不足のない世界に住む事だと言うても、だからいいです。
どうぞ私は、合楽で稽古をなさる皆さんがです。一三六八のおかげを頂いて頂きたい、為にはです。不平不足のない世界、ね。一切神愛とわからして頂いてそれを、実験実証の上に表していけれる信心を、いよいよ頂きたいと思いますね。
どうぞ。